シンポジウム 不登校と哲学プラクティス
「ぐれいぷハウス」には不登校の子どもも来ています。ここは尼崎市教育委員会から、出席扱いできる通所施設として登録されています。令和2年度は小中学生の6名が参加しています。その子どもたちとのかかわりについて、哲学的対話の観点から考えてみるシンポジウムに参加しました。
「不登校と哲学プラクティス」シンポジウム 2021年1月30日神戸大学大学院人間発達環境学研究科 日本学術振興会科学研究費基盤B 19H01185「哲学プラクティスと当事者研究の融合:マイノリティ当事者のための対話と支援考察」(代表:稲原美苗)
そもそも、子どもは”居場所”で何をしているのでしょう。居場所はなぜ必要なのでしょう。子どもの社会的居場所「ぐれいぷハウス」を開いて以来ずっと気になっていました。シンポジウムにお誘いをいただいたのは、日々の忙しさに取り紛れじっくり考えることもせずに3年が過ぎようとしているところでした。
もちろん、機会があればこの問題を考えようとしてきました。令和2年6月から育つことについてテーマを限定した哲学カフェを毎月1回開催しています。この場でも居場所とか育つために何が必要かなのかを考えてきました。
今回は、子どもとの対話を分析してみることで子どもは何をしているのかを浮かび上がらせてみようと思いました。子どもと一対一になる時に、ふっと始まる対話を記録します。4つの対話を記録しました。電話での対話も不登校ではない子どもとの対話も含めました。発話ごとに番号を振り、その発話をカテゴライズすることで何が起こっているのかを可視化しようとしました。
子どもと対話している際には何となく感じることはありました。しかし、あらためて可視化してみると、かれらの”問い”がはっきりと見えてきました。私にとっては意外でした。子どもは継続して、同じテーマについて同じ問いを発し続けています。繰り返し繰り返しなんども問いかけているということです。その様子から私が考えたことは次のようなことです。
①.子どもは問いを発して適切な応答を得ることで自分の考えを進めていきます。考えを進めるヒントや材料を得られるまで問い続けるようです。②.従って子どもとの対話では積極的に発信して子どもにとって新鮮な切り口を見せたり景色を見せたりすることは大事なことです。③.それにもましてまず、安心して問いを発せられることが大事です。
④.子どもは問いを発する自由に恵まれているでしょうか。大人が忙しすぎて子どもの問いを受け止めきれないこともあるでしょう。子どもが納得して考えを進められるようになるまで根気よく問いを受け続けることは大変なことでもあるでしょう。⑤.このため、子どもの問いについ、それを妨害したりわざと邪険にしたりマウンティングに利用してしまったりすることがあるようです。
⑥.子どもの社会的居場所は、家庭や学校以外の第3の場所として子どもが安心して問いを発することができる場所です。私たちは子どもの問いに精一杯応答します。⑦.傾聴とは異なり「それは違うでしょ」ということも結構あります。「それはこういうことじゃないの?」と提案したりお互いに相手に同意しないことが延々と続いたりします。でも対話は続きます。
もう一つ大事なことがあります。それは、⑧.問いを発し考えを進めるということはどういうことか、ということです。家庭でDVがあったりネグレクトがあったり学校でいじめや無関心があったりなど過酷な環境の中に置かれてしまう子どもがいます。かれらにとって自分の問いを問い考えを進めるということは、自分が自分のままでよいと言う感覚をつかむこと、養うことにつながります。このことは、例えば洪水の中で杭にしがみつくような切迫した危機的な状況での救いになりえます。⑨.彼らの問いは端的に「どうしたら生き抜けるか?」ということです。この問いに彼らなりに答えると言う途方もない探求を行っています。
以上のようなことを対話分析を通して考えました。分析が終わった時、私はしばし呆然としました。大変なことがこの小さな場所で起こっていることに気が付きました。そして納得もしました。なぜ、子どもたちが集まってくるのか。
ここは、子どもにとって生き抜く術を身に付けられる場所です。哲学的対話を実践しているのは私たちではなく、子どもたちです。ここは、哲学プラクティスの現場です。