子どもの育ち哲学カフェ 第10回

2021(R3)年5月29日(土)
第一部 13:10-15:45    「怒るってどんなとき?」
第二部 15:05-16:35    「自分を出すとはどういうこと?」
会場   尼崎市立 すこやかプラザ 会議室

少人数で、ゆったりと考え話すことが出来たと思います。ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

第二部の記録です。 「自分を出す」ということはどういうことでしょうか。このことを考えるために参加者に問いを立ててもらいました。

問い:自分を出せないとはどういうことか?

◆言語化
自分の想いを言語化できないもどかし想いをすることがあります。そのままいつか時間が経ってしまう経験は誰もがすることかもしれません。

自分の想いを言語化できると良い、と思うのは話していることを理解してくれる人が居る、ということを前提にしているようです。

それに対し、思いを語らずともいるだけでいい、と思われることは幸せではないでしょうか。

自分を出せないと言うことを言い換えると、例えば「取り繕う」、「本当は怖いけどニコニコする」、「本音を隠す」「態度と言葉が一致しない」などと言うことでしょうか。

態度や表情、行動なども自分を出す方法ではあると思います。言語化だけが自分を出す方法でしょうか?

◆大丈夫?
大丈夫ですか?と問われるクローズドな問いでは、本音は引き出せない。大丈夫か否かと言う2択じゃなく、オープンな何をしてほしいですか?と言う問いが自分を引き出してくれるようです。

2択だと、大丈夫としか答えない。会社でしんどくて大丈夫と聞かれることがあっても、会社が終わってからぽろっと言うのが本音でしょう。
なぜ、大丈夫と答えるのかな。誰も助けてくれないでしょ、という諦めでしょうか。自分を出せないということと、愛想笑いには諦めがある。

大丈夫と問われ、「心配させちゃっね。」と返すのはどうでしょう。

大丈夫と聞くのは使いやすいからです。何が大変かわからないから、ほんわり、どう助けて欲しいかと聞きたいが、他に聞きようがない。もし、困っていることがあれば、話が続けられると思います。

大丈夫、と返すことでお前の助けはいらないよ、と切っている。自分を出さないでおこうとしている。

大丈夫?と聞かれるような状態で自分を出さないでおくと、無理が来るかもしれません。やり取りが続かないのは、聞き方の問題か、関係性の問題か。質問返しができるかということか、どれでしょう。

大丈夫?と聞く側には、「頑張りすぎなんじゃないか」と言う感覚もあるようです。

◆信頼と問い
自分を出せないのは、相手を信頼できないからでしょうか。
適切な問いがあれば自分を出せるのか。

信頼は自分で作るものではないでしょうか。あきらめ始めたらどんどんあきらめちゃうと思います。 少しでも希望を信頼する、と言うようなことではないでしょうか。

つまり、相手がどうあろうが言うと決めて言う。 あきらめのほうに行ってしまうと、自分で諦めを広げると言うか、諦めを信用する?と言うか、諦めたほうが楽。
自分を出すことはリスクがある、ことなかれでいる楽な方が自分を出さずにいることではないかしら。

信頼関係は相互関係なので、大変だと返してくれると信頼できる。大丈夫と帰ってきてやっぱりだめだと信頼できなくなる。

◆圧力
わかってもらうには整理して話すには結構大変。大丈夫ですかではなく、助けて、と言えることは大事でしょう。 理不尽なことがあった時に自分の言葉で伝えられることは大事でしょう。

感じていることを言語化できないと無力感に襲われます。例えば、子育て、できて当たり前。母親は子どもが好きなもの、子どもができてどうしよう、なんておろおろしないのが当たり前の100点満点の母親でなくては許されない。
このようなことを直接言われなくても、圧力は感じるので言えない。世間と言うものかしら。

◆居場所
言語化できないものを引き出せるでしょうか? SOSを出せないし、細かなことも言えないとしんどいです。

そんな時は、その場にいるだけでもいい、と言う安心感があることがまず、必要だと思います。言語化できない人にとっての居場所です。

何言ってんの?と、しゃべっていることを理解しようとしてくれている人がいる場所。「怖い」を払しょくする人がいること。

◆孤独と共有
以前、大阪の高校で野球部のキャプテンの子が自殺した事件がありました。その子は保護者も見ている中で殴られている。試合で他の高校の先生も生徒も保護者も見ている中で殴られ、だれもこのことに異議を発しなかった。
 世の中が良しと認めている規範の中では、言えない。自分だけがおかしいのか、と思う。自分が弱いからや、で終わる。

おかしいと言えないのでしょうか、それとも、そもそもおかしいと思えないのかもしれません。あるいは、自分だけがおかしいと自分を責めて誰にも言えない孤独。おかしいかもしれないと言うことが共有できない。

全員の中で一人でもおかしい、と言うあきらめないことが必要だと思います。ブラック企業を止めるのをいっしょでしょう。今ならばマスクをしない人の人権、と言うかマスクしない選択を言わなくてはいけない。

自分が出せない。と言うのはなにか、降りられない。抜けられない。と言う感覚、あきらめみたいな感覚です。

子育てをあきらめそうになることがあって、それでも希望を持って強くなる。
「私もう無理」と言って降りるわけにはいかないけど、子どもを2歳から保育園へ入れました。あのまま降りられないままになっていると私が死んじゃう。

海外には子育てを美化しない、サイトがあります。子育てをした経験から本音を語るサイトです。 自分もようやく言えるようになった。一方的な教育で、いいとこだけを教えるのではだめです。できないとか無理とか残念な面もあることを含めて両方教育しないといけない。

◆美化
今、美化と言う言葉が出ました。この美化が愛想笑いがつながるように思います。
美化も愛想笑いも信頼がないと思います。
美化で感じるのは都合の良いと言うイメージ。蓋をする、表面だけ美しく化けさせている。

自分を出せないとは、美化されている社会の裏返しで、男の子はこう、勤労は、こう、怠慢はだめ、休むのはダメ、楽をしているのはだめ。まあ、イタリアではバカンスをしないのはだめと言うことになるそうですが。

つまり、価値観が一つしかないと美化になるのかしら。多様な価値観があってそれぞれが分かっていればよいのではないでしょうか。
では、価値観が一つしかない社会で自分をどう出す?

◆価値観と希望
子どもが「家に帰りたくない」と言う価値観を、ある意味自分を出してしまっている子がいたとします。大人にとっては家が安全で外が安全じゃない。 子どもにとっては家が安全じゃなくて外が安全。

一緒にいることが不安全、と感じている子がいたとしたら、そこは大切にしなくてはならないところです。

自分とは異なる価値観を尊重する工夫は色々あるでしょう。自分を出せないと言うその人ではなく、その人の環境を変えることも大事です。

例えば、コロナでオンライン授業が始まってから、オンラインであれば学べる子は不登校とならずに済んでいるようです。このような環境の変化は大事なんだと思います。つまり、社会の変化、数十年の変化は人生での希望になりうるということだと思います。

一方、困っている人は今楽になりたい。だから、それぞれの価値観を尊重する、と「価値観の尊重」と言うような題目は言われているが人々までに降りてきていない。全体を変えるまでになっていないと言うことでしょうか。

外部から価値観などで圧迫されて自分が出せない、では、自分で頑張って出すしかない。
自分の環境で強くなれるんだ、自分を肯定して自分の置かれている環境をも肯定する。ココから希望につなげられるように思います。困っている本人に対して自立へ向けて行こうと言えるのだと思います。

家庭が幸せだと言う価値観、を与えない。すると、自分の価値観を見つけていく。周りから押し付けられる価値観によって、自分は悪い子なんだ、というような判断をしなければ、自分なりの希望を見出せると思う。

そのためには今だけ、とか日本だけみると、固定した価値観しか見えない。
50年前とか、他の国を見ると、違う価値観が見つかる。違う価値観を知らせることと、その子の持っている価値観を肯定することで希望につなげられるのではないでしょうか。

否定的な感覚だけを育てるのは違うが、価値観はそれとして尊重してあげられるような環境が整うこと、自分を出していけるようになるのではないでしょうか。


子どもの育ち哲学カフェは、毎月第4土曜日または日曜日に行っています。

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