【週末はエキサイティング!!】
10月末の金曜と土曜日、続けて哲学カフェを行いました。なかなかエキサイティングな週末となりました。
【夜カフェ】 2021年10月29日(金)19-21時
【死を考える哲学カフェ】 2021年10月30日(土)14-16時
【夜カフェ】 西富松会館にて 参加者4名
◆テーマを選ぶ
久しぶりの哲学バーでした。私もビール片手に参加しました。まず、参加者に今日一日を振り返り印象的な出来事を話してもらいました。
・朝5時に起きてローカルラジオに投稿した。
・大阪で映画「決闘裁判」を見てきた。
・昼間、紅茶を専用のカップ(フランス製)で飲んだが、なぜかハンドルが持てないぐらい熱くなった。
・スーパーで買い物をしてレジに並んだが、財布を忘れた。朝っぱらから大慌てだった。
みんさん、結構いろんなことをしていますね。と言うか、やらかしてると言うか。
◆問いを立てる
ゆるゆると話していると、歳のせいかラジオの深夜放送の話になっていきました。子どもに早く寝なさい!とか言っていますが、深夜放送を聞いていて気が付いたら2時3時。5時まで聞いていたこともありましたね。
流行りの曲を深夜放送で知り翌朝学校で話をする。話が通じる!流行りを知っていることの安心感とはなんだろう。などと思いながら、問いを立ててみましょうと振りました。
「なぜ、ラジオはなくならないのか?」
テレビに押されSNSに食われ古いメディアとして新聞同様廃れていくのか。いや、どうもそうではないらしい。一定のリスナーがいる以上なくならない。リスナーはラジオの何が良くて聞いているのでしょうか。
◆ラジオの特徴
・聞き流すことができる。仕事や運転をしながら聞けるのはラジオだけではないか。
・それなら、音楽を流しっぱなしでも良いのでは。
・いや、自分の選曲ではなくて偶然的に出会う音楽があるのが良い。また、パーソナリティーの大したことのないちょっとだけ気の利いたような話が良い。社会的な話題もちゃんと入っていて日ごろの雑談に困らない程度の情報が得られる。
・流行りの音楽、社会的な話題、ローカルの話題をリスナーが共有できるところが良い。
・ラジオは持ち運びができて布団に持って行けることが良かった。
・曲をリクエストして採用される何とも言えない嬉しさはなんだろう。
・音楽専門番組もあるが、時間帯の存在が逆に良い。縛りがあって軽い緊張をもたらしている。
・ラジオの要素は、1)地域 2)人 3)ジャンル の3つのバランスではないか。
◆ネットとの比較
・ネットでもキュレーションを担う人は重要な要素でしょう。
・A.I.のお勧めは、ピンポイントで効くようです。ベストセラーを買おうとしたときのA.I.のお勧めはボヤっとしていますが、マニアックな選択をしたときのA.I.のお勧めは、その良さが出ています。
・音楽でもお勧めリストがありますが、それを見極める聞く側のキュレーション能力が必要です。
・ユーチューブはとりとめがないことを延々とやることが受ける秘訣みたいです。
◆ライブ
・ラジオはライブでしゃべる文化がある地方が流行ると思う。相撲をラジオで中継することの意味は良く分からないが、アナウンサーの技量が必要なことはよくわかる。
・パーソナリティーは、毎日話題に触れながら飽きさせない、お決まりのパターンを踏襲しながら、聞かせる技量を持っていると思います。
・ライブ性は、ラジオだけではなくどのメディアにも重要です。ライブ性だけで持っている?こともあるようです。
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ラジオは身近に感じられます。昔、ラジオを布団に持ち込んで深夜放送を聞いていました。パーソナリティーの声が直接自分に届いているように思います。音声だけだからなのかもしれません。
インターネットでラジコなどタイムフリーソフトを使うと便利ではあります。でも今ひとつだと感じるのはライブ感がないからでしょう。
ところで、私は12月から「ラジオで模擬哲学カフェ」(ラジオ関西 第3火曜日11:38-12:00)に出ることになりました。いいタイミングでラジオの話が出来ました。
【死について考える哲学カフェ】 高瀬公園とぐれいぷハウスにて
参加者:高校生2名、大学生1名、大人5名計8名(女3名、男5名)
◆ そもそものはじまり
その問いは、思い付きではないと感じました。おそらく2年、3年、いやもっと前から声にする時期をうかがっていたのではないでしょうか。
思いつめたようではなく、でもまっすぐに私に向かってきました。
私が哲学カフェをしていることは知っていました。そして私に大切なことを話してくれたこともありました。そのような日々を重ねてきて、今こう問われました。
「私が死んだら周りの人はどう思うのか?」
私がこの問いを聞いたときに思ったことを言葉にすると、
「あぁ。やっと少し、幸せになっても良いと自分で思えたのかな。」
◆ 色んな人の意見を聞きたいそうです。
自分では死ぬことは端的にやり直すことであり、こんがらがった人生をやり直すのに躊躇はない。と思っているのだがなぜかこの問いが消せない。
なので、この問いをいろんな人に聞いてみたい。みんな、私が死んだらどう思うのか。その答えを聞いたら、なぜこの問いが消えないのかわかるかもしれない。
「哲学カフェのテーマにしてもらえませんか。」と、問いに続けて言ってきました。
私は嬉しかった。1年半近く音信不通でした。lineは消されていませんでした。風のうわさに高校を中退したことを聞きました。どう過ごしているのかわかりませんでした。でも、以前にもあったように、突然、声にできるタイミングがやってくるのではないか。
lineが来た時は嬉しかった。会いに来てくれて嬉しかった。1年半の間に、高校に入り直したこと、家族との関係は相変わらずであること、交際相手ができたこと、などなどを話でくれて嬉しかった。また来るねと言ってくれて嬉しかった。
だから、その声が「問い」と言う形をとって出たことは私にとって、とてつもなく良い吉兆なのでした。
◆ 「じゃあ、死について考える哲学カフェをやろうか。」
こうして17歳の提案に乗った私は約80名のメーリングリストに告知をしました。私の仲間が集ってくれるはずです。様々な声を届けて彼女の探求を応援するために。
「ぐれいぷハウス」に集合しました。
注意事項を伝えます。センシティブなトピックスであること。意図的、恣意的に不安を与えるような発言は控えること。
そのほかのいつも案内する注意事項を伝えます。これには、不適当な発言があると思われるときには対話を中止すること、不安や不快な感じを抱いた場合はすぐに教えていただくか、それが出来なければ場を離脱していただいて構わないこと、などが含まれます。
会場は「ぐれいぷハウス」の横にある公園です。穏やかな良い天気でした。ぶらぶらと歩いて大きなクスノキの木漏れ日を浴びるベンチとその前の地べたに座りました。
◆ 問い「私が死んだら周りの人はどう思うのか?」
・死にたいと思ったり、死のうとしたりしたことはあります。でもその時にいつも家族や身近な人は私が死んだことをどう思うのか、と考えます。
・今までは考えたのは二つ。ひとつは「あいつは逃げた。」と言われる。もう一つは「あいつは楽になった。」と思われる。
・若いころ、知人が自死しました。理由は仕事上の責任を取ると言うものでした。朝の4時に連絡をもらい、駆けつけました。その時「俺はなにをしていたのか?」「何かできたのではなかったか」と強く思いました。
◆ 周りの人とは誰でしょう。
少しづつ問いの核心部分としての「周りの人」が浮き彫りになっていきます。周りの人としての自分や、自分の周りの人としての親や友人に焦点が順番に当たっていきます。
・父からお前には悩みなんかないやろ、と言われたときの絶望感は あぁ、分かってもらえないんやと言う確信に変わっていきました。
・友人に死にたい、と話した時「お前が死んだら俺は悲しい」といわれました。それは私が死を思うのをやめるのに十分でした。
・死にたいと思い詰めているときは、前が見えていない。なんだか横ばかりが見えて他人が見える。
普段の周りの人との関係がこの問いに影響を与えていることに気が付きます。
◆ 私は・・・
と、話を始められた方の声、その最初の音には決意がこもっているようでした。
続けてお話される様子は、座っているのに立ち上がっているようでした。丁寧に、届くように、念じるようにその声はくっきりとしていました。
周りとはだれなのか、を参加者一人一人に思い出させるようでした。私は母を思い出しました。ある人はお父さんを、ある人は友人を、その声は灰色の人が支配する街に響くモモの声のようでした。
◆ 死ぬということ
・死とは究極的な抽象と言えると思います。
・生きる意味を求めるのは、生きることは無意味だということを確認している
・猫が亡くなるところを見ていると死には強力な吸引力がある。死を見ているとこういうものなんやなあ、と思い、教えてもらっているように感じます。
・「死について考える」ことは「どうやって生きようか?」と言う問いに似ていると思います。
・他人がいることを死なない理由にしているようです
・なぜ、人のことを思うのか。迷惑をかけると思うからでしょうか。
・死ぬのを止めるのは周りだと思います。
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問いを立ててくれた子どもは、哲学カフェを経験するのは確か2回か3回目です。初めて会う人達ばかりの間で、考え、混乱し、分からなくなった2時間でした。
セッションが終わって疲れた様子です。お腹がすいたと言うのでレトルトのカレーを出します。ちょっと落ち着いて声を掛けます。
「もう、途中でわからんようになった。」でもどうやら、自分には、周りの人との関係がしっかりとある、と言うことなのだ。と感じたようです。
初めて会った同い年の高校生の意見は彼女にはしっくり来たようです。
お母さんに近い年齢の女性の話も驚きをもって聞けたようです。
最後に私は、彼女にどうしても言いたいことがありました。
「幸せになってね。」
少し照れて軽く頷いていました。
以 上