言葉を紡ぐ

2021年08月18日 

紡ぐとは、バラバラの繊維を撚って糸にすること。
言葉を紡ぐとき、何が紡がれているのだろう。単語と言う文法用語で語られる言葉の塊だろうか。

語彙が多い、少ないと言われることと、言葉を紡ぐことはどんな関係があるのだろう。語彙が少ないと紡がれた言葉は貧弱な弱弱しいものになるのだろうか。伝わることが少なくて粗末な伝わり方をするのだろうか。

夏休みの宿題で作文を書こうとしている子どもがいる。そろそろ夏休みも終わりで手を付けないと間に合いそうにないと思っている。まだ余裕のある間は、作文の宿題を出されたことを呪って文句を言っていた。しかし、いよいよ期限が迫ってきて私に助けを求めてくる。

私に「どんな悲しみなのかな?」と問われた子どもは、つい、悲しみの理由を答えてしまう。お母さんが死んでしまって会えないから悲しい、と言うようにだ。

母を亡くして会えないことは悲しみの理由だ。どんな悲しみなのかはまだ言えていない。私はそこを重ねて聞く。理由ではなくてどんなふうに悲しむ、どんな悲しみなのか、と問う。

子どもはまだ問いに答えられていないことを理解して、再び考えてそろりと口に出す。

「少し寂しい悲しみ」

私は意外に思った。少しなんだ、と。子どもがゆっくり話し出す。

日常は普通に過ごしていくのだから悲しんでばかりいられない。でもずっと続いている。だから、というか激泣きするような悲しさではなくて少し寂しい悲しみだという。お母さんが亡くなった時は激泣きだけど、今は違うと。

この子の紡いだ言葉には、いつかどこかで感じた寂しい悲しみがしみ込んでいる。うっすらと日常に張り付いた悲しみの在り方をこの子は知っている。

少し、寂しい、悲しみと言う3つの単語を繋いだのではない。

じつは、私は作文を作る子どもの横にいて問いかけをすることが楽しい。
言葉が紡がれた姿に、意外な発見あるいは豊かな視線に気づくかされる。

同時に、作文を読むということの難しさを想う。言葉が紡がれた姿を私は受け取れているだろうか。

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