哲学カフェ@武庫東 No62 開催報告
2021(令和3)年8月22日(日)14-16時 武庫東生涯学習プラザ
テーマ「見極める」 参加4名
見極める。
そう聞くと、縫物をする時に針を刺す場所を決めるような印象がある。狙い定めた場所に針を置く。そこからひたすら針を運ぶ。
見極めた先に続く何事かがある。見極めたところから始まるとすると、失敗することもある。ちょうどボタンの掛け違いに気が付いて、遡らなくては行けないときのように。
見極めの失敗を繰り返すと、やがて間違いが無くなる。
これが、極めるということなのかもしれない。
自動車教習所では、見極めと言うものがある。教習所内でのトレーニングを経て公道へ出ることができるかどうかを見極める。
単に運転技術の到達度を見るだけではないだろう。公道を運転するのにふさわしい態度が身に付いているかを見られる。
乱暴ではいけないが怖がり過ぎもいけない。注意散漫もいけないが過集中もいけない。見ることも聞くこともできていないといけない。身体感覚がボディーまで延長されていないといけない。
見極めは教習課程では大事な区切りだろう。
コロナワクチンをめぐって接種するかしないかは「見極めないといけない」のだろうか。
そもそもコロナウィルスは急に出てきたものである。ワクチンが急ごしらえなのは当たり前である。従って治験は済んでいても、治験で得られていない事象が起こりうることは排除できない。
ならば、何を見極めるのだろう。
見極めるのはデメリットかもしれない。発表される感染者数や重症者数のデータかもしれない。あるいは、製薬会社の姿勢や政府の対応かもしれない。
その人が何を、どう見極めるのかを聞いてみたいと思う。
ちなみに、私はこの件では何も見極めていない。
いや、違うな。この点は見極めたかもしれない。
ワクチン接種で腕が腫れ、熱が出るのはいつものことである。つまり、コロナワクチンも同じである、と。